それは京都でも同じ。
まあ、お年寄りになってからは、もうろくしたのかいろいろとメチャクチャをなさいましたが、それを差し引いても人気が十分高いようです。
さて、秀吉公のゆかりの地は京都に山ほどあります。
彼の後半生が京都にありましたから、当然ではあります。
秀吉の京都大改造で道筋も変わりましたし、多くのお寺はひっこししました。
この一記事で紹介することはとてもできませんが、主なものだけでも並べてみたいと思います。
聚楽第
1586年に着工した聚楽第は、関白にふさわしい居館として贅を尽くして作られました。のちには秀次の居館となりますが、秀次切腹のあと秀吉自らが徹底的に壊してしまったので、いまは跡にはなにも残っていません。
大徳寺総見院
織田信長が本能寺で亡くなったあと、秀吉は百日忌を過ぎた10月11日から大徳寺で一週間にもわたる盛大な法要を行っています。葬列には千人のお坊さんが加わり読経をしながら山内を練り歩きました。
見物人の数もすごかったそうです。
そのあと建てたのがこの総見院。秀吉が作っただけに豪華絢爛なお寺でしたが、明治の廃仏毀釈で破壊され、いま残る当時の遺構は正門と土塀のみ。
本圀寺
いまは山科の疏水の奥に移転している本圀寺。 元の場所はいまの西本願寺の北側で、秀吉は定宿として何度も泊まっています。妙顕寺
秀吉のころには妙顕寺は二条にありましたが、その場所から現在地に移転させました。そして自分の居館を建てました。
この妙顕寺の新邸は、聚楽第が完成すると不要になります。
南蛮寺
三階建ての異国情緒あふれる建物でしたが、この地にあったのは10年間。1587年にバテレン追放令がでると破壊されました。
1577年の年号が入った梵鐘が、妙心寺春光院に置かれています。
北野天満宮
受験生が列をなす勉学の神様北野天満宮は、1587年10月に秀吉公が開催した北野大茶会の会場です。町人でもお百姓でも誰でも参加できるということで、たいへんな混雑だったとか。
黄金の茶室も運びこみ、秀吉の所有する茶器はぜんぶ持ち込んで、秀吉自らが1500カ所もある茶の湯所を見物してまわったそうです。
北野大茶会の遺構は駐車場にあり、北野大茶湯之址の石碑が立っています。
茶会ではこの太閤井戸の水を使いました。
お土居
秀吉が作らせた京都をぐるっと一周とりかこむ土手が「お土居」です。総延長は22.5キロ。高さ3メートル、幅9メートル。外側は濠になっていました。
いまもお土居の跡はところどころに残っています。
玄琢・北野天満宮・廬山寺など。
本願寺
西本願寺唐門・対面所・能舞台は伏見城の遺構です。三条大橋
三条大橋は秀吉が架けた橋です。日本で最初の石柱橋でした。東海道の西の起点をして交通の要衝となりました。
満足稲荷神社
伏見城の守護神だった稲荷大神を祀る神社です。1693年に現在地に移りました。出世稲荷神社
元は聚楽第の鎮守社だった出世稲荷神社。秀吉の出世の象徴ともいえる神社ですが、聚楽第破壊とともに移転。いまは大原に移転しています。大徳寺山門金毛閣
千利休切腹の原因となったといわれる木像がいまも安置されています。秀吉が利休になぜ切腹を命じたかはいまもはっきりしていません。
一条戻橋
千利休の木像が磔にされ晒された橋。御香宮神社
通りに面した表門は、かつての伏見城の大手門。拝殿も伏見城の遺構です。
いまでも伏見城の石垣の石が置かれています。
伏見桃山城
いまでも建っている伏見桃山城はキャッスルランドとして作られたもので、伏見城とはあまり共通点はありません。鉄筋コンクリートの5層7重の天守閣はかっこよくて好きです。昔は何度も天守閣に登りました。懐かしい。「黄金の茶室」もありました。
2003年に閉園し、いまは入園料もありません。自由にまわりを散策することができます。
瑞泉寺
瑞泉寺は木屋町三条の繁華街にあり、歴史に興味がないひとはただ門前を通り過ぎるだけかもしれません。ここは豊臣秀次を祀るお寺。角倉了以が秀次の菩提を弔うために創建しました。
豊臣秀次は秀吉の後継者となっていましたが、秀頼が生まれたことや、彼自身の良くない評判により、切腹に追い込まれます。
秀次切腹のあと、その妻、側室、こどもたち39人が三条河原で斬首されました。
境内には後世に作られたものですが、39基の墓塔が並んでいて、その数の多さを改めて認識させられます。
方広寺
東大寺大仏殿よりひとまわり大きかった方広寺大仏殿。当時は東大寺大仏殿は焼失していて、秀吉は代わりの大仏を作りたかったのかもしれません。
大仏さまの高さは48メートル。
耳塚
朝鮮に侵攻した秀吉軍は敵将の首の替わりとして耳や鼻を切って塩漬けにして樽詰めにして日本に送ります。樽は塚に納められ、僧400人を集めて法要が行われました。
圓徳院
北庭は、伏見城の化粧御殿のお庭を移したもの。醍醐寺
醍醐三宝院の庭園は1598年の「醍醐の花見」のときに秀吉自らが作庭したもの。藤戸石は聚楽第から運ばせたものだそうです。
醍醐寺の五重塔は一度も焼けておらず、秀吉が目にしたものです。
傾いたのを秀吉が修復させています。 「醍醐の花見」のために事前に近江・河内・山城・山和から桜の名木700本が次々と植え替えられています。
山内には8つの茶屋が作られ、秀吉は順番に回っていきました。
四番の茶屋は上醍醐の険しい山道の上。実際に登ってみるとかなりたいへんな場所です。
智積院
秀吉は嫡男の捨丸の菩提を弔うために祥雲寺を建てました。障壁画は長谷川等伯に一任。等伯は息子の久蔵や一門総出で描きあげます。
豊臣家滅亡後、祥雲寺は智積院に下げ渡され、のちに殿社は火事で焼失しますが、障壁画は焼失を逃れ、いまも智積院の収蔵庫で鑑賞することができます。
(写真は複製)
庭園は祥雲寺だったときと大きくは変わっていないそうです。
豊国廟
秀吉は62歳で伏見城内で亡くなりました。 そのお墓は標高196メートルの阿弥陀ヶ峰の山頂にあります。1615年に豊臣家が滅ぶと豊国廟は破壊され、今のように再建されたのは明治時代になってからのこと。
豊国廟は京女の通学路「女坂」を進み565段の石段を登った上です。
でも豊国廟からは眺望はありません。
豊国神社
秀吉亡き後、神として祀られた豊国社は、かつては30万坪の巨大な神社でした。豊臣家滅亡後、徳川家康によって破壊されたので、豊国社はたった20年で消えたことになります。
唐門は伏見城の遺構です。
吉田神社
吉田神社の吉田神道は当時の日本の頂点に位置づけられていました。秀吉もその神事作法によって神として豊国神社に祀られました。
高台寺
北政所おねが自らの菩提寺にするために建てた高台寺。 伏見城内の化粧御殿をここに移して住みました。化粧御殿だけでなくほとんどの建物は伏見城の遺構でしたが、ほとんどが焼失しています。高台寺の高いところに建つ茶室「時雨亭」と「傘亭」は、元は伏見城内にあったもの。
秀吉が実際に使ったスリッパや陣羽織も残っています。
正伝寺
方丈はかつて伏見城にあった建物。天井は血天井です。
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